2024年10月より〈もやい〉では、【もやいの「葬送」プロジェクト】を立ち上げ、身寄りのない方のお見送りが各地でどのように行われているかの調査活動とその資金調達のためのクラウドファンディングをスタートしました。
今回は、その企画の一環で、〈もやい〉の共同墓地「結の墓」がある光照院の住職である吉水岳彦さんにインタビューを行いました。本稿ではその一部を掲載します。
大西:今回、身寄りのない方のお見送りを考える「葬送」のプロジェクトを、〈もやい〉で始めるんですけど、それにあたって光照院さんは〈もやい〉以外にもいろんな団体のサポートや葬送もされているので、改めてこれまでのことや、これから葬送の問題がどうなっていくのかを含めて、お話を伺えたらなと思っています。
〈もやい〉とのご縁は2008年に「結の墓」(ができて)ということですけど、どんなきっかけで「結の墓」のプロジェクトに関わられるようになられたんですか?
吉水:ありがとうございます。もともと私は2007年ぐらいまで大正大学の大学院に通いながら、ひきこもりだとか、リストカットをする若者、青少年たちの電話相談のトレーニングを受けたり、または海外で津波があれば、その津波のための募金活動をしたりというような、小さいことながらお寺の僧侶としてでもできることをさせてもらいたいと思って、いろんな活動をわりと好んでする方だったんですね。
そうした噂を聞きつけて、いろいろなところから相談が来るようになりました。そんな最初の相談が、NPO法人もやいさんの最初の代表理事だった稲葉剛さんからの相談でした。
もともと〈もやい〉に来ている元路上生活の方の火葬のときに、遺体が通常はちゃんと火葬されるべきところにちゃんと安置されておらず、しかもそれは雑然とした倉庫に置かれていて、〈もやい〉のみなさんが「せめてお花だけでも」「手を合わせるだけでも」と言って、火葬場に集まってきていたんだけれども、雑然とした倉庫に遺体が置かれているのを見て、とてもショックを受けていた。
あのときにはもうすでにコーヒーサロンが始まっていて、そのコーヒーサロンに来ていた方々もその場に来られていて、「どうしてお金がないということだけでこんな扱いを受けなければならないのか」「この人は精一杯一生懸命生きてきたのにどうしてこの人生の最期の時にこのような扱いを受けねばならないのか」「どうせ俺たちは生きていても死んでいても誰にも気にもかけられないような、本当にどうでもいい存在なんだ」っていうふうにお感じになられたようで。それで当時NPO法人もやいにいた稲葉さん、Uさん、その他関係のスタッフの方々が、これではいけないと思って、最期までを精一杯自分の人生を生きてもらえるように、そのための大事なことって何かっていうのを考えていった末に、出てきたのが「葬送」だったんですよね。
そもそも人の一生の中で人間の尊厳をどこで一番強く感じるか。様々な場面がある中で、とてもダイレクトに尊厳を感じるのはおそらく人の死の場面、最期を見送る場面だと思うんですね。 その最期の見送りをちゃんと精一杯生きたその人を大切に送るということをしっかりしようと。亡くなった後にどこかのロッカーで保管されて、引き取り手がなければ、どこかわからない場所で合葬される、というのではあまりにも悲しい。なので、せめて〈もやい〉に関係した人たちだけでも、同じお墓に入ることでつながりをなくさないように、というふうに考えて、お墓が欲しいという話になった。
大西:なるほど。
吉水:当時この話が巡り巡って私のところに相談が来て、話を聞くのはいいけれども、私自身もどうするのが良いかわからない。山谷で生まれ育っているので、路上の人たちにいきなりお墓が必要とは思えなくて、それでまずはよくわからないから相談を聞かせてくださいと。その当時、私には路上の方々に偏見があったんですよ。しかも自分で気がついてない偏見です。
大西:そうだったんですね。
吉水:だってもう景色の一部でしかない。というか、そこで生まれ育っているわけですもんね。血だらけで喧嘩して、路上に落ちている状態の人がいても、そういうものなんだと思って。
大西:1980年頃でしょうか?
吉水:私は78年生まれなので、そうですね、生まれ育ったのは80年代です。
大西:暴動とかがあった頃ですね。
吉水:ええ、その頃に生まれて育ってきて。私の子どものときには、沈静化してくる時代なんですけど。そこで路上にいるのを見て育ってきて。あとバブルの時期に、たくさんの人たちがここで寝ている人たち、路上で寝ている人たちを見ていた。だから、その印象が強く、着るものも食べるものも何も気にしていない人たちがいったい一足飛びに墓が必要だろうか、と当時は思っていたんですね。
大西:しかも費用も何とかしなきゃいけないっていう。
吉水:はい、費用の面もそうですけど、どこに作るのがいいかとか、そもそも要るか要らないかということを、私自身がわからなかったので、確認をしたかったんです。それでよくわからないまま新宿連絡会の活動に参加をさせてもらって、でも衝撃的でした。
大西:何年ぐらいですか?
吉水:2007年の暮れに相談があって 2008年の元旦に参加したんですね。そしたらその元旦の相談のときに、相談会に来られている路上の方が、私に子ども時代の話をしてくれて、「懐かしいな」って私の顔を見て言うんですよね。「何がですか?」って聞くと、「いや俺は子どものときよく寺に連れて行かれて」って話し始めて、ろくにね、親が面倒見てくれるわけじゃなかったから、おばあちゃんがお寺に行った帰りはおいしいものを食べさせてくれたりとか、それが楽しみだったりとか、いろいろな子ども時代の話を聞かせてもらって。
大西:お寺がセーフティーネットじゃないですけど、そういう経験があったんですね。
吉水:そうですね。子ども時代にお寺でお菓子を食べさせてもらっていたとか、そんな話を聞きながら、私自身にあった差別に気づくわけですね。それまで気がついていなかった差別に。
私はあの場に「ホームレス」という人はどういう人なのかを見に行こうとしていたんです。でも当然どこを探しても「ホームレス」なんて人はいないわけで。そんなこともわからないまま、私は参加していて。でもそのときに出会ったおじさんたちから、過去の子ども時代の話を聞いて、とても当たり前のことに気が付かされたんです。このおじさんたちも子ども時代があったんだって。
当たり前ですけど、でも自分と何か違う存在だと、異質なものだというふうに感じていた私に対して、何も関係なく垣根なく彼らが接してくれたことで、また彼らの過去の話を聞かせてもらうなかで、それで初めて「ああ、なるほど」と。当たり前だけど、私たちは同じなんだな。当然私たちと同じように大事な人を失えば、悲しいし、辛いし、本当に辛くて涙も流す、そういった彼らの心根をよくよく知ることになったんです。
夏祭りの追悼供養のときには、みんな本当に泣きながら、祭壇をたたきながら、「お前どうして先に逝ったんだよ」って。その光景を見ながら本当に大事なことなんだと思いました。
今ご入院されていますけれども〈もやい〉の食堂でいつも生き生き働いていたOさん。Oさんがこんな話してくれたんですよね。みんな口ではね、どうせ野垂れ死にだとか死んだら何もないからわからないとか、言っているけれども、本当は誰かたった一人でもいいから、自分と繋がっていてほしいと思うし、手を合わせてくれる人がいたら嬉しいと思うし、そして何よりもこれまでの人生のなかで路上に出るまでの間に、縁という縁を僕たちは切らざるを得なかった。でも、このNPOの支援のおかげで路上からアパートに移ることもできて、しかもこうやって友人たちができた。この友人たちと死んだ後まで一緒にいられたら、どれだけ残りの人生を頑張って生きようと思えるだろうかと。お墓があって、手を合わせてくれるものがあるということ自体が大事だというのではなくて、亡くなってもつながりがなくならない。そのことを感じられる象徴がお墓なんですよね。そんなこと、私たち宗教者が教えなきゃいけないことなのに、私は元路上の方や、路上の方々から情けないことに教えてもらったんですよ。
私にとって彼らはいい先生です。極楽に生まれ変わって、ということを私たちは説くけれど、それは死後に顔を合わせる再会の約束の場所です。でもやはり現世で、不安になったり、寂しくなったり、辛くなったり、嬉しいことがあったときだって、会いに行ける場所がお墓なんですよね。それがあるからつながっていて、残りの人生しんどいときがあっても、「俺は頑張っているよ」「お前さ見ててくれているか」っていう、こういう対話ができるかどうかが生きる力になると思って、それで長くなったけれども、それで私もお墓をぜひつくりたい、一緒につくらせてほしいと思って、この光照院に「結の墓」を建立しました。
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今回対談いただいた吉水さんからも葬送プロジェクトへの応援メッセージをいただいております。以下のQRコードやYouTubeの検索欄より「もやいの『葬送』プロジェクト」を検索して映像を是非チェックしてください。
おもやい通信の今号が皆さんのお手元に届く際には、クラウドファンディングは終了しているかと思いますが、ぜひ今後とも身寄りのない方の葬送について、一緒に考えていただけると嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。