『朝日新聞』2015年5月24日朝刊「『最後の居場所』奪った猛火 川崎宿泊所火災から1週間」に、もやい理事・稲葉剛のコメントが掲載されました。
●元記事→http://www.asahi.com/articles/ASH5R527VH5RULOB00X.html
【「最後の居場所」奪った猛火 川崎宿泊所火災から1週間】
9人が死亡し、19人がけがをした川崎市の簡易宿泊所(簡宿)の火災から24日で1週間。全焼した「吉田屋」と「よしの」の周りには、今も仲間の安否を気遣う住民たちが集う。猛火は原因究明も、死者の身元確認も難しくしている。
23日午前9時。焦げたにおいが漂う現場前には、警察や消防の検証を見守る吉田屋の住民たちがいた。
「ここに来れば、誰かいる。仲間が無事かを確かめ合うんだ」。1階に住んでいた男性(61)は、近くの別の簡宿から毎日のように足を運ぶ。寝る前になると、天井から落ちてくる火の粉を思い出し、眠れなくなる。心を落ち着かせようと、毎晩、カップ酒を飲み、床につく。
死者は9人。身元がわかったある男性の遺体は、家族が引き取りを拒否した。「決して珍しいことではない」と市の担当者は言う。
30軒以上の簡宿がひしめく川崎区日進町の取材を通して浮かび上がってきたのは、「無縁社会」へと突き進むこの国の姿だった。
キャバレー店長、沖縄の基地関係者、潜水士……。職を転々とし、この街に流れ着いていた。「行く当てなんてどこにもない」。みな異口同音に言った。
過去は語らず、ともに酒を飲み、カップラーメンを分かち合う。焼け落ちた簡宿は、家族と別れ、すみかを失った人たちが見つけた「最後の居場所」だった。
市によると、周辺の簡宿には、1300人の生活保護受給者が暮らす。7割にあたる880人は、65歳以上の高齢者だ。
「結局、ここに押しつけていたのはみなさんじゃないですか」。この街に70年以上住む、ある簡宿の男性経営者は憤った。
1960年代、大工や作業員といった労働者が中心だった。当時は高度経済成長期。どこの宿も廊下にあふれるくらい人がいた。
JR川崎駅前にいた路上生活者らを受け入れ始めたのは74年。男性は「川崎大師の玄関口にホームレスがいると見栄えがよくないという声が出て、組合として受け入れた」と振り返る。
生活困窮者の支援に取り組むNPO「自立生活サポートセンター・もやい」(東京)の稲葉剛さん(45)は今回の火災について「『住まいの貧困』という社会の構造的な問題をあぶり出した」と指摘する。
生活保護受給者への住宅扶助は、一般的に月5万~6万円。アパートを借りられる金額だが、単身で低所得の高齢者は、孤独死を嫌う家主から受け入れられにくい。「住居の選択肢が少なく、劣悪な環境に追い込まれている」と稲葉さんは言う。
市が周辺の簡宿49棟を調べた結果、約7割に違法建築の疑いがあった。大の男が立てば頭が天井に届きそうな3畳一間は、宿泊施設としては不適切だった。
行政も消防も放置してきた街。見て見ぬふりをしてきたのは、私たち自身でもある。(照屋健、村上友里)
■原因究明・身元確認は難航
失火か放火か。神奈川県警の捜査も進む。
これまでの調べでは、出火したのは、吉田屋の玄関から3メートルほど入った1階廊下付近。ベニヤの建材の上にウレタンが敷かれ、燃えやすかった。油をまいたような痕跡はなかった。焼け方が激しく、火元となり得るたばこの不始末や古い電気配線なども、確かめられないという。
犠牲者の身元確認も難航している。判明したのは3人だけ。今後、DNA型鑑定を進める方針だが、血縁のある親族を探し出さなければ照合はできない。「親族との交流を絶っている人や、すでに親族がいない人も多いだろう。どこまでたどれるか」と捜査関係者は話す。引き取り手がない遺体は、市が無縁納骨所に納めるという。(永田大)